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島原半島記
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島原半島歴史項目一覧
島原半島の歴史
◇島原藩 長崎諸藩の中で転封が頻繁に行われた藩。
◇有馬氏 戦国時代島原半島を統一していた大名。
◇沖田畷の戦い 1582年島原半島のキリシタン大名有馬氏と佐賀の龍造寺氏との合戦
◇荘園の分布 島原半島には多くの荘園が存在しました。
◇有馬晴純 天正期、肥前最大の戦国大名。
◇島原の乱 わが国の歴史上、最大規模の反乱。
◇島原半島中世の城 南北朝時代から戦国時代へ、多くの城が築かれました。


島 原 藩 ◇

 中世以来の居付大名がそのまま明治維新を迎えた藩が多かった長崎県域の諸藩の中で、島原藩は唯一転封が頻繁に行われた藩である。
 島原半島一帯は、当初、鎌倉期以来の在地領主である有馬氏の当主晴信が、天正十五年(一五八七)に秀吉から神代領を除く島原半島四万石を安堵され、関が原の戦い後も徳川家康から本領を安堵されて、北有馬の日之江を本拠に近世(外様)大名としての地位を確保した。
 しかし、貿易の途絶による財政の窮乏を立て直すため、杵島・藤津・彼杵三郡内の旧領回復を図るうちに岡本大八事件に巻きこまれ、慶長十七年(一六一二)、晴信は領地没収のうえ切腹を命じられた。しかし、嫡子直純の妻が家康の養女であったことから旧領は安堵され、二年後の慶長十九年、日向国県へ転封を命じられた。
 有馬直純の転封後、島原地方は一時幕府領となったが、大阪陣後の元和二年(一六一六)、外様大名で大和国五条城城主松倉重政が四万三〇〇〇石で日之江に入部し、元和四年(一六一八)から七カ年の歳月をかけて島原に新しく城を築いた。以後、歴代の藩主は島原城を居城とするようになる。
 寛永一五年(一六三八)、松倉勝家は島原の乱を引き起こした責任を問われて改易され、譜代大名を遠江国浜松城主高力忠房が乱後の処理と復興の任を負って入部した。これ以後、島原藩には長崎警備や西日本大名の監視がその任務とされるようになった。忠房の子高長は、寛文二年(一六六二)に検地を実施して藩体制の確立を図ったが、寛文八年、苛斂誅求のかどで所領を没収された。
 このため、島原藩領はふたたび幕府領となったが、寛文九年(一六六九)、丹波福知山城主松平忠房(親藩)が、豊前国宇佐郡の四八カ村、豊後国国東郡の五〇カ村の都合二万七五〇〇石を加増され、六万五九〇〇石余で入部した。忠房は、寛文−延宝年間に領内再検地を行い、また地方知行を蔵米知行に切り換えるなど、近世大名としての支配体制を整えていった。しかし、寛延二年(一七四九)に忠房から四代目のが十二歳で継襲すると、幼少のため長崎警備や西日本大名の監視を任務とする島原藩主としての任に耐えることができないとして、譜代大名の下野国宇都宮城主戸田と交代を命じられた。
 同年、戸田氏は七万七〇〇〇石で入部し、忠盈・忠寛の二代二五年にわたって島原藩主としての地位にあったが、安永三年(一七七四)にふたたび戸田氏と松平氏の入れ替えが行われ、忠祇の用紙の松平忠恕が二五年ぶりに六万九五〇〇石で再入部し、以後、明治維新まで八代にわたって松平氏が島原藩主としてこの地方を治めることになった。
有 馬 氏

 天正期に入って、急速に龍造寺隆信が成長発展する以前、肥前最大の戦国大名は有馬晴純(法名仙岩)であった。
 有馬氏の出自については、同じく肥前の大村市と同様、承平・天慶の乱の一方の首魁とされる藤原純友を祖とするという主張が、ほぼ戦国時代以来なされてきた(「龍造寺文書」)。しかし、「深江文書」によると、有馬(当時は有間)朝澄という者について、平姓であり、かつ「朝澄開発田」なるものがみえ、藤原純友末孫説は否定され、また高来群南部(島原半島)の現地出身領主であることがわかる。鎌倉時代はこうした島原半島南部を中心とする所領の地頭職をもつ肥前国御家人であったと思われる。しかも、それはおそらく有間庄の庄官から武士化したものであろう。こうして地頭領主として発展した。
 南北朝時代に入ると有馬(このころからこの字を用いる。南島原市北有馬町)に日野江城を築いてこれに拠り、主として南朝方として活動した。
沖田畷の戦い

 天正10年(一五八二)、島原半島のキリシタン大名有馬晴信は、佐賀の龍造寺隆信の大攻勢に耐えかね、鹿児島の島津氏に救援を求めた。
 そこで島津義久は、九州の覇権をめぐる龍造寺家との対抗上、有馬晴信の要請を受け、およそ三〇〇の軍勢を島原に送った。
 島原半島では、室町時代、群雄割拠のなかかからしだいに有馬氏が台頭し、一五世紀の後半、有馬貴純の代になると、半島内の諸豪族をほぼその支配下に入れた。そして貴純は、その後、島原半島外に勢力を拡大し、大村氏を破り、松浦氏を破った。そして、晴純のころには、肥前の大半を領土に組み入れ、少弐・大友・島津各氏に次ぐほどの一大勢力になった。
 ところが十六世紀後半、晴純の子義直(のちの義貞)の代になると、有馬氏は、佐賀の龍造寺氏の攻撃に苦しむようになった。まず、永禄五年(一五六二)、有馬義直は、小城(現、佐賀県小城郡小城町)で龍造寺隆信に敗れた。これが、有馬氏の衰退のはじまりであった。
 その後、龍造寺氏はますます強大となり、天正4年(一五七六)には大村氏を降し、翌年には伊佐早(現、諫早市)の西郷氏を討ち、さらに、島原半島に攻め入って神代(現、雲仙市国見町)・三会(現・島原市)・島原(同)・深江(現・島原市深江町)・千々石(現・雲仙市千々石町)の各城を攻略した。
 そこで、義直の子で、短命の義純の後を継いだその弟晴信は、一度は龍造寺隆信に和を乞うた。
 しかし、天正一〇年(一五八二)、龍造寺氏との戦いを決意した晴信は、先述のように薩摩の島津氏に援助を求めた。いっぽう、要請を受けた島津義久はこれに応じた。
 その二年後、佐賀の龍造寺隆信は、二万五〇〇〇人の大軍をひきいて島原半島に攻め込んできた。
 これに対して、島津家久(義久の弟)は、およそ3000人の軍勢をひきいて半島南部の須川(現・南島原市西有家町)に上陸し、安徳(現・島原市)から島原に兵を進めた。そして、島津勢と有馬勢の連合七〇〇〇人は、島原の森岳に陣をしいた。
 いっぽう、龍造寺隆信は、島原半島北部の神代に上陸し、三会に進出して陣をかまえた。隆信は、その攻撃態勢を、山の手・浜の手・中道の三つに分け、隆信自身は山の手を進むこととした。
 ところが、その中道に、島津家久をはじめ、薩摩氏の精鋭が待ち受けていたのである。両軍は、島原の沖田畷で対峙した。
 戦闘は辰の刻(午前八時)に始まった。数の上で劣勢な有馬・島津勢は、必死だった。そして、昼ごろ、薩摩の川上左京亮が、およそ三〇〇人の兵をひきいて龍造寺隆信の陣に突撃した。油断していた隆信は、あっけなく首を斬られた。
 総大将の龍造寺隆信が討たれたため、佐賀勢は総崩れとなって敗走した。
 こうして、島原半島における有馬氏は、息を吹き返したのである。
荘園の分布

天平15年(七四三)に出された墾田永世私財法によって、山林原野の開発が進行し、この間、貴族・寺社の大地所有への道が開かれた。
こうした父に対して、不輸租の特権や、国使の入部を拒否する不入の権を獲得して、ここに荘園が成立することになる。
 島原半島には、山田庄、髪白庄、高来東郷庄、安富庄、有間庄、串山庄、千々岩庄があり、多くの荘園の成立が見られました。
有馬晴純

 有馬氏は戦国初期には島原半島を統一していたとみられる。これをさらに島原半島から外部に向かって、高来北部から藤津・杵島両郡に版図を広げ、さらに彼杵・松浦両郡にも勢威を及ぼす戦国大名に発展させたのは、有馬貴純の孫有馬晴純でした。
 当時は、島原半島の安徳・安富・島原・多比良・神代・千々石・伊福・西郷各氏はもちろん、松浦・平井・馬渡・嬉野・白石・上滝・原各氏を配下にして、「兵馬2万の大名」とまでいわれていたという。
島 原 の 乱

島原の乱は、江戸時代初期に起こった日本最大級の反乱事件である。原城に立て籠もった島原・天草の一揆衆およそ3万7000人が、12万人の幕府軍に全滅させられてしまったのである。
島原半島の城
南北朝の争乱期からとくに戦国時代にかけて、長崎県下ではまさに築城ブームの時期を迎えることになり、入りくんだ長い海岸線と島々、そして海に迫る山地によって占められる県下の地形に合わせて、入り江にのぞむ海城や内陸部の山城や平山城が百花繚乱のように咲き競った。それも近世の一国一城令のもと、多くは破却されて深い樹木のなかに眠ることになるのである。
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